美術史とは科学と技術の開発史だった
時間に追われる生活とは、過去の整理を済ませないうちに新たな未来と格闘しなければならない精神状態のことである。
日常のこまごまとした仕事や生活に追われながら、科学技術の進歩について正確な知識と感覚を持ち続けるのは並大抵のことではない。
20世紀になってから科学技術が高度になればなるほど、私たちはリバイバルという名前の流行に身を任せることで生活に潤いを求めてきたのだ。
そういえば美術(=art)は、産業革命が起こる頃まで科学の一分野でもあったのだ。
レオナルド・ダ・ビンチの例を引くまでもなく、その昔画家たちは美術を視覚と表現材料の科学としてとらえていた。
・視覚の問題=臨場感のある感動的なビジュアルを生み出せるかという
人間の目の構造と脳みその中で行われる操作の研究のこと
(レオナルドたちの研究とは風景画を描くときの自然の景観の研究であり、
人物を描くときの人体解剖学であり、
遠近法はじめ色々な美術の数学法則のことであった)
つまり彼らに要求されたのは有能な博物学者としての観察眼だった。
私たちの知っている「科学」により近いのは、表現材料の研究である。
現在私たちは自然界にある全ての色を表現する材料を日常的に使っている。
あまりにも日常的になってしまって気がつかないのだが、私たちはここわずか数十年の人類史上画期的な時代に生きている。
だから、私たちには過去の画家たちの絵の具開発の苦労がなかなか理解できない。
画家たちはパレットの上で好みの色を混ぜ合わせる楽しみを味わうその前に、絵の具そのものを製造しなければならなかった。
15世紀後半に油絵の具が開発されてからは状況はかなり改善されたが、
それでも画面に完全に定着させるための特別の下塗りや、鮮やかな発色を得るための秘密の調合法など、画家たちはまさに科学しなければならなかった、画家は科学の子であった。
画家は、
摩訶不思議な操作で色を作り出し、
ギリシャ数学伝来の黄金分割など神秘的な手続きで画面構成の比率を割り出し、
遠近法の開発で平面の上に空間をシミュレーションして見せる。
画家は魔術師や錬金術師の領域にさえ踏み込む職種であった。
つまり美術史とは科学と技術の開発史でもあったのである。
現代では風景を描く前に椎の木と栗の木の各季節での葉の茂り方の違いを研究したり、
恐怖におののく裸の女性の指先の白の絵の具はどの種類の化学物で調合されなければならないか、などと調査研究することなどない。
しかし過去の画家たちはまず画家であるためにこのような基礎的な知識を習得しなければならなかったのだ。
レオナルドの膨大なメモやミケランジェロやレンブラントのデッサンの意味が鮮明になってくる。
彼ら巨匠は、このような基礎的な知識と技術を卒業して初めて、名作と呼ばれているものに取り掛かることができたのである。
科学と技術の視点に立ってルネサンスやそれに続く時代の名作を眺め回してみるとき、
それらが当時では数少ない教育を受けたインテリで、
同時に最先端の技術者の制作物であることに気がつく。
芸術品とは科学製品でもあったのだ。
ある時期から美術に対する考え方が変わってきている。
これは絵画のスタイルや流派の問題ではなくて美術に対する制作者の立場の根本的な変化であるはずだ。
画家が博物学者のまねごとや錬金術師の亜流であることをやめた時、
それが私たちの知っている現在の美術に対する考え方の始まった時である。
それは当然のことながら近代科学が急速に加速し始める産業革命の頃だった。
近代科学が機械文明と結びつき、貴族や僧侶たちに代わって産業資本家が時代のオーナーになろうとするころであった。
18世紀後半イギリスで立ち昇った蒸気機関の噴煙は、あっという間にヨーロッパの社会構造を変革し、何よりも人々の世界観を激しい勢いで破壊し始めた。
こうした破壊の成果は、次の世紀の半ばにダーウィンの進化論のような形で示されるようになり、ヨーロッパに新しい精神世界の支柱が形成されて行く。
進化論は、いまだにアメリカにはそれを認めない州があるほどキリスト教世界の根幹に関わる大問題である。
キリスト教の世界観によってかたち作られてきたヨーロッパ社会で、最もベーシックな部分に破壊的な論理がぶつけられた。
それはただ単にダーウィンという個性と当時の自由主義的な雰囲気が旧勢力相手に大論争を挑んでセンセーションを巻き起こしたというだけではない。
ヨーロッパがキリスト教に変わる新しい世界観を科学的態度というものに求めていたということなのだ。
ダーウィンがケンブリッジの神学部出身であるという皮肉がそれをよく表している。
進化論によってめちゃくちゃ憤慨した人もいた代わりに、神と人間と科学の関係にスッキリした解釈をしてもらえて内心ホッとした人もいたのである。
その上こうした動向を補強するたくさんの科学的事実が証拠として人々の前にリアルに示されていた。
神との関係はともかくとして、いまさら蒸気機関車を止めるわけにも行かなかったのである。
しかし美術は、そのころ古いものの見方から脱皮できずもがいていた。
ちょうどロマン派や古典主義の体制派の片鱗にリアリズムの絵画が現れ、
ひどくマイナーな社会的立場に置かれながらゆるゆると印象派へと這いずっている時期であった。
リアリズムから印象派へ。
彼らがいかに大衆に受け入れられなかったかはご存知の通り。
大衆は無知であった。
そして当時の体制派の勢力というのは巨大であった。
美術の革新者であろうとした若い画家たちは、新しいものの見方を提案したが、全く受け入れられない。
しかし執拗な努力と未来を見抜く才能のおかげで後に大画家として美術史に君臨するようになるのだ。
美術史上稀にみるスキャンダラスな時代、これが近代美術の始まりなのだ。
どんな時代にもテーマがあり、そのテーマの解釈の違いが一つ一つの文化に反映されていく。
美術もまた例外ではなかった。
科学に反発しまた同時に融合されていく時代に突入していだのだ。
科学はすでに魔術や錬金術とは全く無縁のものになっていた。
そんな近代科学と向き合ったこと、このことが美術を新しい時代に向かって拡大していく自由な発想の生まれる契機となった。
ところで、科学技術が急速に発展し、歴史の歯車の回転が目に見えて速くなっていく19世紀に、なぜ美術の世界はあんなにぐずぐずしていたのだろうか。
美術に明らかな変化が起きてくるのはやっと19世紀も末なのである。
もともと科学とは別のものではなかったはずの美術なのに、なぜあのように保守派が強力だったのか。
変革をサポートしようという勢力さえ登場しなかった。
新しいものに貪欲だった時代精神を考える時一つの疑惑が起きてくる。
この疑惑に答えるためには当時の社会階層の変化を考えなければならない。
美術かは昔、ごく一部の人々のためにしか芸術をしなかった。
この頃は主役の座からじりじりと滑り落ちつつあった貴族階級が唯一のお得意様であった。
産業革命が進行するこの時代、機械のために特技を生かすことができなくなった職人階級は工場労働者という名の都市の貧民階層に転落してしまったし、
農村はわずかな生活改善で過剰な人口を生み出し、貧民をただただ都市に送り出す場所となってしまったから、
彼らが芸術家のサービスを必要となるまでにはまた随分と時間がかかりそうだった。
新しい主役は好奇心の塊のような産業資本家たちであった。
なにせ発明と発見の時代だ、好奇心のない者は取り残されていくだけだった。
美術や音楽など芸術(=art)と名のつくものは、もともと貴族階級の独占物で地位や品性を示すスノビズムだったから、
財力以外に誇るもののなかった新興階層が、貴族と同じに芸術というステイタスを手に入れようとしたのは当然だった。
したがって文化的には旧勢力以上に保守的なのである。
だから、科学的な新発見を産業化しようとして財産をはたく博打うちはいても、
新しい絵画のスタイルを応援して笑い者になっても良いという新興成金などいるはずもなかった。
科学時代の文化に誇りをもったスポンサーの登場を待つしかなかった。
生まれ変わろうとしていた美術が社会の支持をやっと取り付けるのは、19世紀も末、印象派の時代もだいぶ経ってからであった。
印象派とは、飛行機と自動車、電気と写真と植民地の時代に遅ればせながらやってきたビジュアルの産業革命であった。
そして20世紀を目前にしたこの時、科学主義の産業社会を相手に反発と融合の現代美術史がやっと開始されるのであった。
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